第1回 料理人としてのはじまり
銀座アスターへ

愛媛(朝倉)の王府井にて
昭和34年、中学を卒業後、集団就職で上京しました。銀座アスターに就職したのは、先輩が大勢行っていたというくらいの理由です。 銀座アスターでの最初の1年間は配送の仕事でした。これは後から上司に聞いた話ですが、私はここへ残るであろうから、会社全体を見るには配送しかないということでした。 なるほど、全店を回ると、どこの店はどんなものを売りにしているか、出荷量はどうか、ということが分かります。それを覚えてもらおうと思って配送の仕事に就かせたそうです。
配送の仕事は、各店舗の大きな冷蔵庫まで入っていって百貨店の中華の売店にも売っている 餃子やシュウマイ、饅頭など全部の商品を輸送することです。ただ、まだ子供でしたからお腹が空すきました。 冷蔵庫で餃子やらシュウマイやらいろんなものをつまみ食いしたもんです。 そして冷蔵庫の中で思いました。こんなに旨いものがあるのかと、これを仕事にしたら食いっぱぐれがないぞと。それが料理人になろうと決めたひとつのきっかけです。
19歳まで仕事をして調理の責任者になれなかったら、自分は向いてない、私は、最初からそう結論を出していました。高卒で入ってきた同期が、中卒の私たちをガキ扱いして馬鹿にするんですよね。口にこそ出しませんでしたが、将来料理長になって使ってやる、と思いましたよ。その頃から料理長を目指していました。 それで、19歳の時に千葉にある銀座アスターの場長(料理長)補佐になれました。
そこの料理長は、街のラーメン屋から上がってきた方で、ソバ打ちでもなんでも出来る人でした。朝早く行ってソバも打つ、餃子の皮も作る、シュウマイの皮も作る・・・、ずいぶん教えてもらいました。この経験は今でもものすごく役に立っています。、ソバが旨いか不味いか、自分の中にものさしができました。本当に先輩、上司に恵まれました。
「うまい」は「甘い」
上司といえば、本社にすばらしい方がいました。コックではないのですが、私が料理長補佐になったころ、月一回、教育の会を設けてくれました。内容は、これからのコックは本を読め、新聞を読め、カバンを持て、コックの地位を上げていこう、という意識改革でした。そのころ教わったことの中で今でも残っているのは、「旨い料理とはどういうものか、不味い料理とはどういうものか」ですね。当時、もしワープロがあったら、「うまい」と打つと「甘い」、「まずい」と打 つと「しょっぱい」と出てくる、こういう事なんですね。だから味付けは、絶対にしょっぱくするな、必ず薄味薄味で止めておきなさい、という舌の訓練が続いたものです。
それから、とにかく旨いものを食べろ、ということ。給料をもらうと4、5人でグループを作って、大体一晩で食べていましたね。後はすみませんって上司のところでご馳走になっていました。その上司は、コックではないんですが、料理を作るのが実に好きな人で、よく家に呼んでもらい、「沢山食べろ、食べなきゃ覚えれないんだから食べろ」ってとにかく飛び跳ねるぐらい食べました。その上司の家にはいつも7~8人が1年の半分ぐらい泊まっていました。お金が無くなると、そこに「ただいま」って帰りますから。晩御飯食べて、風呂入って寝る、朝、行ってきますって職場に行ってまたそこに帰って・・・。そんな生活をさせてもらいました。
最年少調理長として
東京オリンピック閉幕後の12月、銀座アスターが名古屋松坂屋に出店というとき、21歳だった私は、調理長として赴任しました。これは今でも銀座アスターで年齢だけは記録が破られてないと思います。メンバーはわずか6人、部下は18、19歳ですから、仲間と合宿みたいな感覚でした。小さい店で料理の腕はまだまだでしたけど、21歳で料理長・・・天狗になりました。材料は東京に発注かけると全部送ってくれるんですが、ある時、発注ミスで材料が届きませんでした。その時、名古屋にある中華材料屋さんに行って、こういうのないかって聞いたら、なんでも出してくるわけです。そうすると自分の知らない言葉がたくさん出てきて、これではいけない!と、ものすごく恥をかきました。
それからは夢中になって勉強しました。給料の三分の一は料理の本になりました。 書店で中国料理じゃなくても「中」って書いてあっただけでもなんか料理に関係あるんじゃないかと思って手に取ってしまうくらい、徹底的に勉強しました。さらに、字の練習と中国料理の漢字の勉強もやりましたね。そんな中で早くから調理長になれましたから、比較的環境には恵まれていたと思います。
